パワプロ2022再現選手 作成一覧
福澤 洋一(1995年 千葉ロッテ)【パワプロ2022再現選手】
ジャストミート
<選手紹介>
福澤 洋一(ふくざわ よういち)
1967年5月26日生まれ 福岡県出身
直方学園高-九州産業大(中退)-ロッテ・千葉ロッテ(1989‐2003)
<1995年成績>
7試合 .222 0本 1打点
<寸評>
九産大時代は九州六大学リーグで3回の優勝を経験するも、中退。ロッテの監督だった有藤通世に見込まれて1989年にロッテオリオンズへ入団。
1年目こそ98試合に出場するも、以降は青柳進や定詰雅彦といったライバルに勝つことができず、2003年に引退。
引退後はロッテ、横浜や日ハムでコーチを務め、2014年にロッテのコーチに復帰、2019年からはスカウトを務め、佐藤都志也や高部瑛斗を担当。2023年からは再びバッテリーコーチに復帰。
<査定について>
セカンド適正→この年二軍で数試合やってました。まあ気持ち程度に
そのほかは特に
<後記>
大学中退なので高卒にしてます。
ではでは
山本 功児(1984年 ロッテ)【パワプロ2022再現選手】
パ・リーグの「やまもと こうじ」
<選手紹介>
山本 功児(やまもと こうじ)
1951年12月25日生まれ 大阪府出身
三田学園高-法大-本田技研鈴鹿-読売-ロッテ(1984-1988)
<1984年成績>
125試合 .301 10本 66打点 4盗塁
<寸評>
巨人時代は好守の一塁手として知られていたが、あの方がいたので主に外野で起用されていた。ちなみに宇野ヘディング事件を引き起こした張本人である。(バッターとしてショートに打ち上げた)
1984年にロッテへトレードされると開幕から5番ファーストで定着し、初めて規定打席に到達。翌年もゴールデングラブ賞を獲得するが、1986年からは落合博満がファーストに回ったため、レフトや指名打者に回るもケガもあり、レギュラーを張るまでには至らなかった。1988年には愛甲猛がレギュラーに定着し、同年引退。
その後はロッテでコーチ、監督を務め、平井光親や福浦和也を首位打者に育て上げた。
監督としては在任中Bクラスのみだったが、2005年の日本一の礎を築いた。
2004-05シーズンは巨人にコーチとして復帰するも、堀内監督退任と共に巨人を退団。このタイミングで初めて現場から離れた。
以降は病気も患い、2016年に亡くなられた。
長男の山本武白志は横浜DeNAで育成選手としてプレーした。
また、今年からロッテの二軍監督に就任したサブローは山本功児が背負っていた背番号86を背負う。
<査定について>
併殺→85年リーグ最多の22併殺打
代打〇→巨人時代は代打の切り札でした。
サヨナラ男→こちらも巨人時代に3本のサヨナラ打を記録。
それ以外はデフォです(たぶん)
<後記>
監督用ではないです。
ケガEでもよかったかな...
ではでは
樋口 一紀(1995年 千葉ロッテ)【パワプロ2022再現選手】
シーズンの大半を1軍で過ごすも...
<選手紹介>
樋口 一紀(ひぐち かずとし)
1967年9月9日生まれ 福岡県出身
柳川高-住友金属-千葉ロッテ(1992-1995)-中日-千葉ロッテ(1998)-阪神
<1995年成績>
62試合 .202 0本 2打点 3盗塁
<寸評>
中学はPL学園中に在学するも小柄な体格なことからPL学園高校への進学ができず。
新日鐵堺や日本生命の補強選手として都市対抗野球に出場し、1991年には日本選手権の優勝も経験している。
1991年ドラフト5位でロッテから指名を受ける。
1995年オフに3対3のトレードで中日へ移籍。
1997年オフに2対2のトレードでロッテに復帰。
しかし、1年で戦力外通告を受け1999年は阪神に入団するがこちらも1年で戦力外通告を受けたことで現役を引退。
現在は大阪で少年野球の指導をしている。
<査定について>
盗塁F→成功率.272(11-3)
バント〇→この年8犠打、中日時代の97年にも7犠打を記録。
ショート適正→中日に移籍してからやっています。第一次ロッテ時代は二軍でも二塁のみです。
<後記>
この後ショートもやってるので肩強めにしてます。
ではでは
平井 光親(1995年 千葉ロッテ)【パワプロ2022再現選手】
アミーゴセニョリータ
<選手紹介>
平井 光親(ひらい みつちか)
1966年11月8日生まれ 福岡県出身
東福岡高-愛知工業大学-ロッテ・千葉ロッテ(1989‐2002)
<1995年成績>
127試合 .260 4本 49打点 6盗塁
<寸評>
1988年にドラフト6位でロッテに入団。
3年目の1991年には松永浩美との首位打者争いを制し、日本一地味な首位打者と言われたとか言われてないとか。(111安打は2リーグ制以降の首位打者としては最少)
以降ケガなどもあったがコンスタントに試合に出場し続け、1998年にはイチローに次ぐ.320の打率を残した。
この年はオールスターに初めて出場し、巨人の斎藤雅樹から二塁打も放った。
2002年に引退をし、現在は母校の愛知工業大学の監督を務めている。
<査定について>
走塁B→4本の三塁打を記録。前年はリーグ最多の6本。
盗塁E→成功率.545(11-6)
粘り打ち→この年はキャリア最多の71三振を記録してますが、キャリア通しての三振率は10%ぐらいです
選球眼→出塁率は毎年きっちり残してます。この年も.335
<後記>
ミート迷いましたがDでとどめました。
慎重盗塁は外しました。盗塁Eはだいぶ効くと思うのですが...
ではでは
ジョー古河(1997年 横浜)【パワプロ2022再現選手】
最後のドラフト外入団
<選手紹介>
ジョー古河 (本名:古河 有一 ふるかわ ゆういち)
1970年6月17日生まれ 神奈川県出身
プラット・キャニオン高-カリフォルニア大-広島東洋-横浜(1996-1999)
<1997年成績>
1軍出場なし
2軍 .270 3本 28打点 4盗塁
<寸評>
1992年オフにドラフト外で広島に入団。
ドラフト外制度は1991年に廃止されていたが、外国学校を卒業した日系人のため特例として入団が決まった。
広島時代は1994年に二軍で10本塁打、先頭打者本塁打を2回記録したが、1軍に上がったのは1995年の2試合のみだった。その年のオフに自由契約になり横浜へ移籍。
横浜でも1試合しか出場できず、1999年に引退。
引退後は横浜で通訳を務め、2005年からは広島・ブラウン監督の通訳も務めた。
2010年からはテキサス・レンジャーズの環太平洋地域スカウトを務め、2012年はダルビッシュ有の専属通訳に就任。
2013年からは再び環太平洋地域スカウトに復帰し、有原航平の入団にも尽力した。
<査定について>
盗塁F→成功率.400(10-4)
対左E→広島時代から基本的に右投手からホームランを打ってます。
エラー、積極守備→この年15失策
バント〇→この年10犠打
走塁B→この年4三塁打
サブポジ→二塁、外野はこの年出場。三塁は広島時代。
<後記>
なんとなくのチョイスです。
背ネーム分からんので古河にしました。
ではでは
荘 勝雄(1995年 千葉ロッテ)【パワプロ2022再現選手】
ラストイヤー
<選手紹介>
荘 勝雄(そう かつお) [日本名 坂元 良嘉 さかもと よしか]
1959年2月1日生まれ 台湾出身
台湾・輔仁大学-ロッテ・千葉ロッテ(1985-1995)
<1995年成績>
19試合 1勝0敗 6.00
<寸評>
台湾の輔仁大学を卒業後、体育講師の職に就きながら国際大会で活躍し、26歳の年に日本のロッテオリオンズに入団。
外国人ながら狭山の合宿所で生活をするなど苦労した面も多くあった。
1年目から先発や抑えでフル回転し、11勝をマーク。
以降も小宮山悟や伊良部秀樹が出てくるまでエース級の活躍を見せたが、1989年を境に成績が急降下。
金田正一監督の勧めで帰化もしたが1992年から3年間勝利から遠ざかり、リリーフ中心の登板となった。
1995年シーズンは現役最後の勝利をリリーフ登板で上げたが、このシーズン限りで引退。
以降はロッテのコーチや中国・江蘇、台湾・ラミゴ、独立・福井でコーチを務めた。
<査定について>
力配分→この年中嶋聡にめった打ちにあってます。また、西武の宮地克彦に初ホームランを献上。
負け運→通算で負け越している上に先述の通り、千葉移転後勝ち星から遠ざかっていた。
その他赤特→成績の通りです。
<後記>
出身を台湾にすると外国人枠になるのでその他にしています。
3年連続200イニング越えとか普通にすごいんですけどねえ...
村田兆治と千葉移転後の狭間だったのがもったいなかったですね。
そして更新お久しぶりになりました。
光回線がぶっ壊れてたので...
ではでは
黒木 知宏(1995年 千葉ロッテ)【パワプロ2022再現選手】
ルーキージョニー、フル回転。
<選手紹介>
黒木 知宏(くろき ともひろ)
1973年12月13日生まれ 宮崎県出身
延岡学園高-新王子製紙春日井-千葉ロッテ(1995-2007)
<1995年成績>
20試合 5勝7敗 3.71
<寸評>
1994年ドラフト2位(逆指名)で千葉ロッテに入団。
1年目はリリーフでも登板したが、リリーフ7試合で0勝5敗で5.27と散々な成績に。
6月の末に初先発するとその試合で毎回奪三振の12奪三振で完封をおさめ、先発の一角に入り80イニングを投げた。
以降はマリーンズの主力投手として活躍。98年の七夕の悲劇を経験するなどチーム順位が浮上しないため、暗黒エースの象徴というイメージも。
200イニングを2回記録するなどタフさも見せた。
しかし、2001年の前半戦を境にケガで離脱してしまい、かつての力は戻ることなく2007年に引退。(2000年より右肩の違和感があった)
引退後は2013年から17年まで日ハムの投手コーチを務め、退団後はNHKなどの解説者として活動。ワールドスポーツ×MLBにも出演。
2023年シーズンより投手コーチとして古巣ロッテに復帰。実に16年ぶりの復帰となった。
ちなみに黒木の長女はマリーンズのチアM☆Splash!!のメンバー、MEIである。
<査定について>
闘志→これは付けざるを得ない。闘志を込めたピッチングスタイルは社会人時代に教えられたものと語っている。
冒頭より
クイックE→この年ボークを取られてます。97年にも1回あり
対ピンチE→リリーフ時は回途中の登板もあり、前述の通り肌に合わなかったのは間違いないだろう。(98年のリリーフやった時ダメだったのは必然かもしれない)
<後記>
宮崎訛りが心地いいです。
ではでは